『幻の光』から宮本文学の核心へ:楊照、陳蕙慧座談会レポ

151028-2000

楊照(左):作家、評論家、ラジオパーソナリティ。一九六三年生まれ。台湾大学歴史学科卒。財団法人新匯流基金會理事長。小説、文芸評論からエッセイまで幅広く執筆。代表作は『迷路的詩』(新經典文化)、『尋路青春』(天下文化)、『如何做一個正直的人』(本事文化)など。
陳蕙慧(右):編集者、翻訳家。輔仁大学日本語学科卒。群星文化、青空文化相談役。訳書は『幻の光』(青空文化)などほか多数。

オンラインブックストア TAAZE 讀冊生活が主催したイベント【2014~2015小說節系列講座:閱讀日本小說大師傑作】の最終回、2015 年 10 月 22 日台北・紀州庵文学森林にて行われた、宮本輝作品をテーマにした「生き直す場所で——『幻の光』から宮本文学の核心へ」座談会の内容をダイジェストでまとめました。

大阪という街で

陳蕙慧:雨風の中にもかかわらず今日のこの盛況、みんなが集まってくれたのは宮本先生のためなのか、それとも楊照先生のためなのでしょうか(笑)私が今年の夏、宮本文学の舞台をめぐる旅を一回してきました。回ったのが概ね大阪ですけど。出発前にあまり大阪に対していいイメージが持ってなかったのですが、宮本先生は大阪出身で、多くの作品もこの街を言及していたので、一度は回ってみたいと思わせました。そして回ってみたら、見方も確かに変わりました。宮本先生(及び山崎豊子、田辺聖子など重要な作家先生の方々)の話を楊先生としたら、数々的確な見解をお持ちだと思ったので、今日はぜひ聞けたらと。

楊照:大阪は何かを後世に残そうとしない、人にイラ立ちさせ、定性の欠けた街だと思います。まるで時間が止まったような、ゆめまぼろしも含めて百年も千年もの歴史を保存しきた京都とは対照的で、大阪の時間の流れはいつも慌しくそそっかしい。このような慌しくもそそっかしい時間の流れを肯定する感覚を、宮本先生は作品の中で何度も何度も抵抗してきて、それで形成したのが宮本文学の核心だと思います。どうしても手放せない——我々の生活から突然に消えていなく人たちを。

私小説議論よりも死生観に注目すべし

陳蕙慧:宮本先生は自分の生まれや育ち、そして父親の生涯のもたらす影響(もしくは落とした影)を『泥河』、『流転の海』などの作品の中に反映させたからか、「私小説から抜け出していない」と批判する評論家がいますけど。

楊照:実はね、宮本輝作品をこういう感じで一言で片付けたり、あるいは特定のジャンルで縛り付ける考え方に、僕は賛成できませんよ。これらの作品は私小説にせよ、それも質の高い私小説です。宮本先生に重苦しさを書かせたら、そこには本物の命の重みと苦しみがあり、悲しさを書かせたら、真の悲哀が描かれる。自分に酔しれることなく、細々することもなく 、人々の同情や共感を呼び起こす、強烈なイメージを潜ませるものが書ける。ゆえに宮本先生が大作家であると僕は思います。良い作品の書けるテクニックを持っている。

陳蕙慧:『幻の光』を翻訳する間に、ほかの宮本作品もたくさん読み返しました。そこで強く感じたのですよ、宮本先生がずっと掘り下げているのは、人々が予測不可能の運命と対峙する際、なんとかして心の出口を見つけ出し、この世に生き直すことを。

楊照:そう。これらの作品群がどのような私小説かどうかを議論するよりも、宮本先生がわれわれの考えたこともなかった死生観を描き出したことは、もっと大事だと僕は思いますよ。宮本先生の描く生と死はあんなに切実で、「死」というのも少しだけ死んでいて、死んだのになお生きて、もうひとりの困惑の中に生きている死があるとか。また「生」というのも少しだけ生きていて、生きてるのに死んだような、生きる意味を放棄し——さきほど蕙慧さんの言った「この世で生き直す」きっかけを見つけるまで生きていけないとか。これらはすべて『幻の光』の中に描かれていて、しかも読者から予想できないサスペンスまで埋め込んであるから、読めば身にしみてなかなか忘れられない一冊だと思います。

【つづく】

文責・撮影:獅小編
日本語版翻訳・作成:elielin
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